佐村河内守

佐村河内守(さむらごうちまもる、1963年9月21日 - )は自称作曲家。

経歴

1963年9月21日、被爆手帳を有する両親の元に生まれた。
1988年2月、佐村河内は「津軽恋女」(新沼謙治)などで知られる作曲家で音楽プロデューサー大倉百人(おおくら もんど)にデモテープを渡した。佐村河内は当時派手なアクションでオリジナル曲を歌っていた。大倉は「声はいいものがある」と評価、「第2の矢沢永吉」とのキャッチフレーズで、5月30日にはデビューに先立ち、レコード会社9社を集めて“競り”と称したファーストライブを行わせた。大倉はその後2 - 3社に契約を持ちかけたが、ちょうどその頃、佐村河内の弟が事故死したことや、大倉自身が佐村河内の「虚言癖」に気づいたこともあり、同年夏頃には大倉のほうから接触を断った。1988年5月31日のサンケイスポーツ紙面には、佐村河内の「国内では目標にする人はいません。いまの日本のロックにないパワーを見せたい」という言葉が掲載されている。この年、3歳年上の女性と結婚し、横浜に転居した。
1990年、シンセサイザーで作曲を始める。
1993年、自伝によればこの頃、左耳の聴力を失う。
1996年、新垣隆が佐村河内のゴーストライターとして曲を作り始める。新垣は「佐村河内の曲は全て自分が担当したと認識している」と述べている。
出会いは当時、シンセサイザーを使って簡単な作曲をしていた佐村河内が、映画『秋桜』の音楽の仕事を依頼されたことに始まる。1996年夏、アシスタントを探していた佐村河内は、自身がシンセサイザーで作った「短いテーマ曲」を新垣に渡して、「これをあなたにオーケストラ用の楽曲として仕上げてほしい。私は楽譜に強くないので」と頼んだ。佐村河内は「この作品はぼくの名前で発表したい。君の名前は演奏家としてクレジットするし、将来必ず引き上げるから、しばらく協力してほしい」と言ったという。この曲は「佐村河内が制作予算を無視して約二百万円もの自腹を切り」、新垣が「大学で集めた学生オーケストラに演奏させて録音」させた。「一つの作品ができると、それを持って別の映画会社、ゲーム会社、テレビ局等に売り込む。取ってくる仕事は、確実にレベルアップしたものになって」いったという。
1997年5月3日、映画『秋桜』公開。
1998年、ゲームソフト『バイオハザード』の交響曲として「CRIME AND PUNISHMENT」発売。
1999年、音楽を担当したNHK『山河憧憬 武蔵野』が放送される(1月21日、BSハイビジョン)。
1999年1月、ゲームソフト『鬼武者』の音楽「交響組曲ライジング・サン」の担当が決定。自伝によれば、この年の2月に「全聾」となった。
2001年1月、ゲーム『鬼武者』と、「交響組曲ライジング・サン」を含むサウンドトラックが発売される。聴覚障害をはじめ、抑鬱神経症、不安神経症、頭鳴症、耳鳴り発作、重度の腱鞘炎など、自らの障害や持病について公表。頭鳴症については「常にボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が頭に鳴り止まない」としていた。長らく聴覚障害を隠していた理由については「耳の不自由な作曲家の作品には、同情票がつくであろうこと。それだけはどうしても避けたかったのです」「『聴覚障害を売り物にした』という誤解も避けられないだろう」と説明した。9月、アメリカの雑誌『TIME』に「現代のベートーベン」と紹介される。
2002年1月21日、横浜市から身体障害者手帳(第1種2級)の交付を受ける。
2003年秋、『交響曲第1番《HIROSHIMA》』が完成。佐村河内は新垣に200万円の報酬を支払う。しかし、曲が長すぎたために長い間、どこにも発表されなかった。また、当時は「HIROSHIMA」の副題はなく、この副題は2011年のCD発売の際につけられたものである。
2005年8月、『交響曲第2番』が完成。
2007年11月、自伝『交響曲第1番』(講談社)が発売。
2008年9月1日、広島市の広島厚生年金会館ホールで行なわれた「G8議長サミット記念コンサート〜ヒロシマのメッセージを世界に〜」にて交響曲第1番の第1楽章と第3楽章が広島交響楽団により世界初演される。同年、広島市民表彰(市民賞)を受賞(ゴーストライター問題発覚後取り消された)。TVディレクターの古賀淳也 (ディレクター)が取材を行い、『筑紫哲也 NEWS23』(TBS)で紹介される。
2009年、交響曲第1番は芥川作曲賞の選考過程で審査員である三枝成彰が推すも最終候補とならなかった。
2010年4月4日、大友直人指揮の東京交響楽団により、交響曲第1番《HIROSHIMA》(広島初演版による改訂版)の第1楽章と第3楽章が東京芸術劇場で演奏された。
2010年8月14日、秋山和慶指揮の京都市交響楽団により、交響曲第1番全曲版が京都コンサートホールで演奏された。
2011年4月11-12日、交響曲第1番全曲の録音をパルテノン多摩で行う。曲が複雑なため、録音にあたってはライブ録音ではなくセッション録音を選択。クラシックでは近年、コストの少ないライブ録音が主となっており、日本コロムビアのクラシック録音としてはこの10年かけたことのない金額が必要だったという。録音初日の2011年4月11日には東日本大震災の最大級の余震が発生。7月にCD「交響曲第1番HIROSHIMA」が日本コロムビアより発売。
2011年、映画『桜、ふたたびの加奈子』の音楽を「佐村河内守」名義で担当することが決定。
2012年1月、CD「シャコンヌ〜佐村河内守弦楽作品集」が日本コロムビアより発売。6月25日、ヴァイオリニストの大谷康子らが「無伴奏バイオリンのためのシャコンヌ」を演奏する。
2013年3月10日、石巻市立湊小学校の体育館で「ピアノのためのレクイエム」を初披露。自身の弟子で「義手のヴァイオリニスト」として知られる“みっくん”に「ヴァイオリンのためのソナチネ 嬰ハ短調」を提供。
2013年3月31日、佐村河内守を特集したNHKスペシャル『魂の旋律 〜音を失った作曲家〜』が放送される。2008年以来の仲であるディレクター古賀淳也の企画である。番組では『交響曲第1番』の成功、聴力を失った「苦悩」(のちに詐称問題へ発展)、東日本大震災の被災者へ向けたピアノ曲「レクイエム」制作に至る経緯などが紹介された。この番組が反響を呼び、交響曲第1番のCD売上がオリコン週間総合チャートで2位を獲得。
2013年4月26日、『中居正広の金曜日のスマたちへ』で佐村河内守特集が放送される。CDは売上を伸ばし続け、2013年5月時点で10万枚を記録するヒット作となった。
2013年6月15日から、「交響曲第1番HIROSHIMA」全国ツアーが開始。
2013年8月17日、大友直人指揮の東京交響楽団による演奏会で、交響曲第1番に先立ち「弦楽のためのレクイエム・ヒロシマ」(合唱版を編曲したもの)が世界初演された。10月、CD「佐村河内守:鎮魂のソナタ」が日本コロムビアより発売。
2013年10月、雑誌『新潮45』に、佐村河内は本当に全聾なのかと疑問を呈する記事が掲載される。
2014年2月5日、『週刊文春』の暴露記事を送られた佐村河内守が弁護士を通じて関係各所に謝罪したことから、ゴーストライター問題が発覚。2月6日、『週刊文春』発売。

人物

外出時に「光を避けるため」としてつばの広い帽子とサングラスを着用していた。ポップ・ミュージックに対して否定的ながら、ドアーズは例外としている。
プロダクションでのプロフィールは次のようになっていたが、信憑性は極めて低い。
4歳で母親からのピアノの英才教育が始まり、10歳でベートーヴェンやバッハを弾きこなして「もう教えることはない」と言われた。以後は作曲家を志望。中高生時代は楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法などを独学。17歳で原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症。高校卒業後は現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、独学で作曲を学んだ。

ゴーストライター問題

新潮45に全聾への疑惑が掲載
2013年10月、新潮社発行の月刊誌『新潮45』11月号において、「佐村河内は耳が聞こえているのではないか」という疑惑が出た。ゴーストライターとして佐村河内作品の作曲を行っていた新垣隆(にいがき たかし)は、これを機に佐村河内との関係解消を申し入れた。佐村河内からは「夫婦で自害しお詫びしようと思います」と電子メールが来た。佐村河内は自殺をほのめかしつつ作曲の継続を訴えたが、新垣は最終的に事実を公表することにした。フィギュアスケート選手の髙橋大輔がソチオリンピックのショートプログラムで、自作の楽曲「ヴァイオリンのためのソナチネ」を使用することを知り、「このままでは高橋選手までもが佐村河内の嘘を強化する材料になってしまう」と懸念したからである。

週刊文春で作曲者・新垣隆が告白
2014年2月2日頃、新垣隆が佐村河内との関係を告白した文藝春秋発行の週刊誌『週刊文春』の記事が、佐村河内に送られた。2月6日、「全聾の作曲家佐村河内守はペテン師だった!」という記事を載せた『週刊文春』が発売された。これに先立ち2月5日、佐村河内は「交響曲第1番《HIROSHIMA》」や「ヴァイオリンのためのソナチネ」などの主要な楽曲が、別の作曲家によって作られたものだと代理人の弁護士を通じて明かした。佐村河内自身は実際の作曲者が誰なのかを明らかにせず、「(実際に作曲した)人物の側にも作曲者として表に出づらい事情がある」としていた。しかしこれは虚偽で、翌日会見を開いた新垣は「(そのような事情は)特段ありません」と語った[38]。佐村河内は2月5日NHKの取材に対し、「1996年ごろ初めて映画音楽の作曲依頼を受けたが、耳の状態が悪くなり、半分以上を別の作曲家に作ってもらったのがきっかけ」と語っていた。これについても新垣は、「佐村河内は普通に会話ができ、譜面についてはそもそも書けない」と証言する。

作曲者・新垣隆の記者会見
2014年2月6日午後、新垣隆(当時桐朋学園大学非常勤講師)は記者会見を開いた。新垣は佐村河内の代作を18年間行っていたことを明らかにした。
以下はその要旨。
佐村河内の曲は全て自分が担当したと認識している。他にゴーストライターはいないと思っている。
佐村河内の耳は聞こえており、通常の会話で自分の要求を新垣に伝えていた。ときには新垣が作曲し録音したものを佐村河内に聴かせ、やり取りをしていた。
杖は使っていないときもあった。
CDの解説にある佐村河内との出会いのエピソードはほとんどが嘘である。
佐村河内のピアノは非常に初歩的なレベル。楽譜も全く書けない。
佐村河内は図表や言葉で曲のイメージを伝えてきた。図表などの指示がない場合もあった。
後にこの図表については、佐村河内の妻の母が「あれは娘の字です」と証言したが、佐村河内は自分の書いたものであると謝罪文の中で強調した。
佐村河内はプロデューサーのような立場だった。佐村河内のアイディアを新垣が曲にして、佐村河内は自分のキャラクターを作って世に出した。
報酬は18年間で20曲以上作って720万円であった。
「交響曲第1番《HIROSHIMA》」は、最初「現代典礼」というタイトルで作曲者が書いたものを、数年後に佐村河内が「HIROSHIMA」と名づけた。
「佐村河内の愛弟子」とされる先天性四肢障害の少女“みっくん”がマスコミでクローズアップされていたが、少女の家族は佐村河内の虚偽を知らなかった。
この少女と新垣は、少女が4歳の時から知り合いだった。少女が「佐村河内の愛弟子」としてテレビに出たあと、少女の家族は佐村河内から無理難題を言われるようになった。このことを少女の両親が新垣に相談したことも、新垣が告発するきっかけになった。
少女の父親が託したコメントによると、ここ1年ほど少女の家族は、佐村河内から「絶対服従」を前提とした従いがたい要求を出されるようになっていた。2013年11月「服従できぬ」と答えたところ激怒され、絶縁状態になった。
佐村河内側からの反論
新垣の会見後、佐村河内の代理人弁護士は、「佐村河内が聴覚障害2級の身体障害者手帳を持っていることを確認した」「新垣の話す内容は唇の動きを見て理解していた」と話し、耳が聞こえているという新垣の証言を否定した。佐村河内本人の会見については、「憔悴しきっていて応じられる状態ではない」とした。

佐村河内が直筆の謝罪文を公表
2014年2月12日未明、佐村河内は代理人の弁護士を通じて、マスコミ各社に直筆の謝罪文を送った。以下はその要旨。
家族、新垣ら関係者やファンに向けての謝罪。
3年ほど前から体調によっては周囲の声や音をある程度聴きとれる。
聴覚障害については再判定を受け、場合によっては手帳の返納も考えている。
作曲の指示書については佐村河内の直筆であり、「娘(佐村河内の妻)の字」は義母の誤解。
佐村河内の両親は本当に被爆者であり、被爆者健康手帳を持っている。
代作についてはあくまで新垣との間の秘密で妻にも明かしていなかった。
新垣隆は週刊文春の記事中で「もしこのことが明らかになると私たち夫婦は死にます」という趣旨の手紙が「明らかに奥さんの筆跡」で、「奥さんも全てのからくりをわかっていた」と語っている。
妻が望むなら離婚に応じる。
弁護士にも真実を明かせず、決断に時間がかかり、謝罪が遅れた。
近いうちに公の場で謝罪する。
代理人の弁護士は、2月7日に佐村河内から「実は聴力が回復している」と打ち明けられたという。代理人が医師に見解を求めたところ、「限定的とはいえ、言葉が聞き分けられるまで回復する可能性は低いのではないか。原因が精神的なショックによるものであれば、そういう可能性もあるかもしれない」との説明を受けた。

関係者の証言
佐村河内の妻の母は、『日刊スポーツ』などの取材に対し、16年間佐村河内夫妻と音信不通であることを明かした上で、交響曲第1番の指示書について「あれは娘の字です」と語った。また、「佐村河内は高校時代、娘の弟の友人を騙って娘に近づいた」「(佐村河内は1988年ごろ)通勤途中に自分の不注意でジーパンが破れたのに、会社にお金と代わりのジーパンを請求していたみたい。やはりあの子(佐村河内)はおかしいと思った」「15年前、(自分の)知人から『佐村河内は今、耳が聞こえない』と聞いた時、また嘘をつき人をだまそうとしているんだと直感した」「佐村河内の家にはピアノがなく、曲を作れる子でもなかった」「違う人が作っていると確信していた。いつかバレると思っていた」と語った。娘(佐村河内の妻)に対しては「早く離婚して広島に戻ってきてほしい」、ゴーストライターであることを告白した新垣隆に対しては「感謝しています。勇気のいることだったと思う。会ってお礼を言いたい」と述べた。佐村河内の妻は、幼少期からピアノを弾いていたいう。
週刊誌『AERA』は、2013年6月にインタビューの掲載を見送った経緯を明らかにした。インタビュー取材終了後、帰りのタクシーが到着してインターホンが鳴った際に即座に立ち上がって「来ましたよ」と言うなどの振る舞いがあったため、取材後に複数の関係者に確認したところ作曲能力や聴覚障害への疑念が生じ、掲載を見送ったという。
音楽評論家の鈴木淳史は問題発覚直後の2014年2月6日に、新垣隆が作曲していたことを「ある時期から知ってました」と表明し、交響曲第1番を賞賛していた許光俊には「2年くらい前に簡単に伝えました。彼は『作品自体を評価すればそれでいいのだから』というスタンスなので、そういった情報に格別に動揺もなかったようでしたが」と述べた。

影響
この問題が発覚したのち、予定されていたコンサートは全て中止、インタビュー記事を掲載した月刊誌「家庭画報」最新号が新規出荷を停止、レコード会社の日本コロムビアがCDの出荷やインターネット配信を停止、自伝『交響曲第一番 闇の中の小さな光』も絶版となるなど各方面が対応に追われた。
また、前述のように髙橋が「ヴァイオリンのためのソナチネ」を使用していた問題では、オリンピック開幕の約1週間前に対応に追われる事態となったが、髙橋サイドは「ショートプログラムの曲は変更せず、そのまま使用する」ことを決断し、関西大学オフィシャルサイトを通じて明らかにした。なお、この件に関して日本スケート連盟が国際スケート連盟に対して「ヴァイオリンのためのソナチネ」作曲者の氏名を削除する手続きを取ったことを公表している。国際スケート連盟は、「(選手使用曲の)作曲者の氏名を明示しなければならないというルールはない」として、「ヴァイオリンのためのソナチネ」をオリンピックにて使用することは問題ないとしている。
同月6日、広島市が2008年に授与した「広島市民賞」を返上する意向が佐村河内の代理人の弁護士を通し伝えられ、同日、賞の取消が決定された。翌日、公告が掲示され、表彰状の返還を求める通知文が送付された。
福島県本宮市では、佐村河内に市民の歌「みずいろのまち」の作曲を依頼し、2014年1月中旬に作品を受け取っており、東日本大震災3年の追悼式典で発表される予定だったが、この問題により曲を破棄することとなった(ただし、この曲については代作であるかどうかは確認されていない)。作曲の報酬200万円は予算として計上されているが、支払われない方針である。なお、歌詞については一般公募であるため、別の作曲家に新たな曲を依頼することが検討されている。
日本レコード協会は2月7日までに「佐村河内守」名義でヒットしたCD「交響曲第1番 HIROSHIMA」について、発売元である日本コロムビアからの申し入れを受け、出荷枚数10万枚を超える作品に与えられる「ゴールドディスク」認定を取り消した。過去に遡っても殆ど前例が無く、日本コロムビアは「CDを出荷停止していることに加え、社会的影響の大きさを考慮した」と辞退申し入れに至った理由を説明している。この曲を初演した広島交響楽団は、2014年5月に予定されていた山口での演奏を中止することを決定し、同楽団の関係者は「もう演奏できない曲になってしまった」と遺憾の意を表明した。
2014年2月12日、田村憲久厚生労働相は、佐村河内が「言葉が聞き取れる時もあった」と公表したことについて、閣議後の記者会見で「障害者手帳の取り消しも含めて対応する」と述べた。さらに今後、障害年金支給の有無について調査し、条件を満たしていなければ返還を求めるとの見解を示した。
2014年2月15日、作曲者偽装問題で佐村河内の代理人を務めていた弁護士・折本和司らが、代理人を辞任したと明かした。折本は辞任の理由について、佐村河内や関係者と「今後の方針に関し、意見の違いが生じたため」としている。

  • 最終更新:2014-02-16 13:35:24

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