津水死事件

津水死事件は1955年7月28日に三重県津市の津市立橋北中学校の女子生徒36人が津市中河原海岸(文化村海岸)で水泳訓練中に溺死した事件である。

事故概要

水泳訓練の計画
橋北中学校では、学校行事の一つとして毎年夏季に水泳訓練を実施してきたが、昭和30年に津市教育委員会が夏季水泳訓練を同市内小中学校に正課の授業(正確には特別教育活動)として実施させることとしたため、7月15日の職員会議でその実施計画の大綱を決定した。その概要は以下のようなものであった。
訓練は津市中河原地先の通称文化村海岸において、7月18日より28日までの10日間、午前中に施行するものとし、参加生徒約660名は、男女別にしさらに水泳能力の有無によって区別したうえ、ホームルームを中心とした組別に編成することとして男子7組(うち水泳能力のない組3組)女子10組(うち水泳能力のない組9組)の全17組とした。
さらに教諭16名と教諭の手不足補充のため事務職員1名とに各1組を担当させ、別に陸上勤務者として教諭2名を置き、水泳能力も指導の経験も充分な教頭(昭和30年4月着任)と体育主任の教諭(昭和27年4月新任)の2名を生徒全般に対する指導者とした。
校長(昭和23年着任)は担当生徒数が多い女性教諭の補助も引き受けた。若い体育主任は水泳場設置・訓練の実施進行の担当者でもある。

水泳訓練の開始
橋北中学校では、予定通り昭和30年7月18日より文化村海岸で水泳訓練を開始した。
文化村海岸とは以前から同校が水泳訓練を行ってきた場所で、安濃川河口右岸から南方に広がり満潮時にも数十m幅の砂浜を残す遠浅の海である。7月18日から27日までの訓練場は、安濃川右岸から約300m南方を北限とし、南北の渚の線で約60m(約70m)、渚より東方沖に水深1m前後を標準として3,40m(約40m)の所とした。この区域は竹の表示竿で区切り、南北に区分して、訓練開始当初2日間は男子を北側、女子を南側に入れたが、以後は男女の場所を入れ替え女子を北側にした。これは女子が水泳終了後、男子より少しでも早く北方にある校舎に帰り着替えできるようにとの配慮からであった。橋北中学校訓練場の北側には市立南立誠(みなみりっせい)小学校、南側には市立養正小学校の水泳場が設置されていた。男子側も女子側も各組の使用場所を特定区分することはせず、組担当職員を中心にその附近で練習させていた。

訓練最終日-事件の発生
7月28日、水泳能力のテストを行うことを教職員間で打ち合わせた後、体育主任は補助の3年生とともに一般生徒職員より先に学校を出発して、文化村海岸の訓練場に到着した。
この日は、南側の養正小学校、北側の南立誠小学校が水泳訓練を実施しなかったので、水泳場の区域を前日までの幅約60m(約70m)から110mに拡げ、沖への奥行を渚より約41m(深さが1m足らずのところ)とした。北側の幅50m×奥行41mは女子水泳場、中間の幅10m×奥行41mを男女の境界、南側の幅50m×奥行41mを男子水泳場とした。沖41mの線の男女各水泳場の角に1本ずつ表示竿(竹竿)を立てた。このように拡げられた水泳場の北端(女子水泳場の北端)は安濃川河口より約295mの位置にあった。
この位置は、最も近い澪(帯状の深み、この時は海岸北端から海岸に平行して200m地点に至り、そこから大きく湾曲して沖に向かう。幅約20m、満潮時で水深約2m)の縁辺まで約30m(約20m)であった。
水泳場設定時(午前10時10分前頃)は、小潮の日の中でも最も干満の差の少ない日の七部満ち前後の潮具合の時である。無風快晴で海面には格別の波もうねりもなかった。しかし満ち潮の流れとは違った潮の流れが前日とは逆に水泳場を南から北に流れており、これに気づいて教諭に告げた水泳場設定に当たった水泳部員もいた。
テストの方法は、沖の境界の表示竿から少し内側に色旗付竹竿を10m置きに約10本立て、2本目まで泳げた生徒には20mと書いた距離札を男子水泳部員が渡すというものである。当日参加した女子生徒は約200名である。
職員に引率され、体育主任らよりやや遅れて海岸に到着した一般生徒のうち女生徒に教諭が入水の注意、潮の流れがあることを告げ、点呼、準備体操の後テスト前の体ならしの意味で入水時間を10分間として午前10時頃一斉に海に入った。男子生徒も同様である。
女子の集合場所は男女水泳場の中央寄りであったことから、自然にそこから女子水泳場東北隅に向かって扇形に散開するような形で海に入ることになった。約200名の女子生徒は泳げない者が大半を占めていて、テストで少しでも泳げる者としての認定を受けようとして浅くて水泳に適さない渚寄りを避けて大勢が沖の境界線に集まった。
ところが海に入ってから2,3分後(約4,5分)、女子生徒100名前後の者が水泳場東北隅附近で一斉に身体の自由を失い、溺れるに至った。生徒のほかに女性教諭も溺れている。溺れた生徒の一部の救いを求める声に驚いた職員や3年生水泳部員に海水浴客が協力して懸命に救助に当たった。校長も生徒を引き連れ海に入っていたが、北に流され水泳場外で救いを求める数名の生徒に気づき、助けて上陸している。教諭の一人が自転車で約500m離れた芸濃地区組合立隔離病舎に急を告げ、医師と看手が現場に自転車で急行、少し遅れて看護婦も到着、救い上げられた10余人にカンフル注射や人工呼吸を施した。
次いで樋口病院から自動車で医師が駆けつけ、この自動車を見た警察が初めて事故を知り、三重大学付属病院や伊勢市の山田日赤病院に応援を求めた。津警察署からは救援隊が、三重県警察本部機動隊、久居の自衛隊衛生班、県庁職員も出動した。4名の漁師も舟で救援に協力した。三重大付属病院から院長ら医師13名、看護婦8名が到着したのは12時15分であった。
14時50分には山田日赤病院から医師6名,看護婦10名も到着した。49名を引き揚げ、必死の手当てで13名は意識を回復したが(5時間半の人工呼吸で助かった生徒もいる)、36名は生き還らなかった。蘇生した13名は市内の病院で手当てを受けたが、うち6名は海水が多量に肺に入っていたため嚥下性肺炎を併発、28日夜重体に陥ったが29日朝危機を脱した。橋北中学校の学校葬は8月1日に行われた。
なお、8月6日には岩田川で水難女生徒の冥福を祈る灯篭流しが行われ、花火を合図に人々が黙祷を捧げている。

事件の報道と調査
この事件について、朝日と毎日、中日新聞(中部日本)は当日28日夕刊第一面に写真入りで報道し、航空機からの現場空中写真も撮影している(読売新聞は未見)。中日は号外も発行している。以後数日間報道が続く。朝日31日夕刊では、ラジオで救助の実況録音放送があったことがうかがえる。
翌29日には、午前10時頃から1時間余り第四管区海上保安本部水路部長、津測候所技術官、津地検検事、津署長らが水路、潮流、危険区域の標識、遭難地点などについて現場検証を行った。文部省では現地から電話報告を受け、28日夜初中局中等教育課事務官を現地に派遣した。
同日の参院文教委では松村謙三文相、緒方初中局長らから事情を聞き責任を追及。松村文相は29日「惨事を繰返さないように万全の策をつくしたい」との談話を発表、同日、福田文部次官事務代理名(毎日。朝日では稲田事務次官代理)で各都道府県知事、教育委員会、国立大学長、国立学校長あてに「各学校に対し一層周到な指導を行われたい」と電報で通達している。上京中の田中覚三重県知事は急いで帰県し、水難特別調査委員会を設置した。
学者の調査には以下のものがある。
「津市橋北中学校女生徒水死事件調査報告」(日本海洋学会誌、11,4)
後の日本海洋学会会長南日俊夫(気象庁気象研究所、理博)によるもの。これは津測候所の資料、1955年9月10日に自ら観測した資料、気象庁の潮干表、教職員の体験談等によるものである。
「伊勢湾西岸における沿岸流況」
三重県知事の依頼により、三重県立大水産学部講師坂本市太郎が1960(昭和35)年に行った調査。津水域において同年8月中旬から9月上旬にかけて8日間、抵抗板、トランシット追跡により潮流の測定を行い、その結果を図表に表したもの。

事故の実態

この事件には、校長、教頭、体育主任が業務上過失致死で起訴され、控訴審名古屋高裁(小林登一裁判長、吉田岩窟王事件の判決で有名。成田薫、布谷憲治裁判官)で無罪が確定した刑事裁判、津市を相手取った民事の損害賠償裁判があるが、何が起ったかについてはこれらの判例の証言、証拠によるのが今のところ妥当であろう。(「第一審刑事裁判例集、第1巻追録」(1958)、「下級裁判所刑事裁判例集」(3、1・2、1962)、「下級裁判所民事裁判例集」(17、3・4、1966))

異常流
28日事件当日、水泳場設定時すでにあった流れで、平常の満ち潮だけに原因する流れとは到底認め得ないかなり強い流れ、これを裁判では「異常流」と称している。第一審津地裁では「強いとはいえ水泳場内に立っているものが押し流されるというまでには至らぬ程度のもの」としたが、控訴審では「多数の女生徒を押し流した」としている。これが27日とは逆に水泳場をほぼ南より北に流れていた(27日には生徒が南に流されている)。
これについては以下の証言がある。
「足の裏の砂がすうと動くように感じ」(女生徒)
「海底の砂がくづれて流されている様子であった」(女生徒)
「流で足をさらわれ倒れかかったこともあった」(泳げない組女生徒)
「北に向きをかえて泳ぐととても泳ぎやすかった」(泳げる組女生徒)
「自分は少しは泳げるのにこの日はほとんど泳ぐ間もなしにブクブク流されていって溺れた」(泳げる組女生徒)
「後向きに陸の方へ行こうとしたけれどもなかなか進めなかった」(女性教諭)
「急いでそこへ行くと…後から押されるように前に浮き上るのを感じた」(教諭)
「後から突きだされるような感じをうけながら溺れていた生徒を助けたが」(教諭)
「2人目の救助に向かった時、急に潮の流がきつくなってきてさざ波もたち…(コムラ返りを起した友人の)○○は足がなおって浮袋をもちながら戻ろうとしても流がきつく、なかなか戻れなかった」(女生徒の救助に当たった男子水泳部員)

急激な水位上昇
生徒の入水後2,3分した頃沖合から突然大きなうねりが女子水泳場附近一帯に押し寄せ、このうねりのために女子水泳場は沖の境界線附近でさえ1m足らずの水深しかなかったのに1m4,50cmに水位が上昇したとするもの。第1審では錯覚とし、民事ではうねりはあったにしろたやすく信用できないとしている。
これについては以下の通り証言がある。
「女子水泳場東南隅附近の深さは腰(実測1m)まで位のところで…5分もたたないうちに水が急に口の辺(実測1m45cm)まできて」(女生徒)
「(東北隅の表示竿)へ歩いたり、泳いだりしながらいくと、まだそこにいきつかないうちに立とうとしたら背がたたず、頭が水にはいってしまっても足がつかないので、」(泳げない組女生徒)
「色小旗のすぐ手前の辺で一寸泳ぐまねをして立とうとしたら急に水がふえ背が立たなくなり頭をこしてしまった。」(泳げない組女生徒)
「その時急に深くなってきて、背がどうにか立つか立たん位になったので、背のびしてピヨンピヨンとぶようにして岸へきたが」(泳げない組女生徒)
「東南隅の表示竿の手前1m位のところへいくと、自分の胸位(実測1m14cm)の深さでその時は流も感じなかった。3人で北に向かって泳いでいき東北隅の表示竿の手前5m位のところで立とうとすると、深くて立てないので」(泳げる組女生徒)
「水泳場の中であろうと思うが、疲れて立とうとしたら深くて背が立たなかったので必死になって陸の方へ泳いだ。立とうとしたところの深さは手をあげても足りないくらいだった」(泳げる組女生徒)
「(南から3本目位の小旗)へ10m位とんでいこうとすると、へそ位の深さだったのが高いうねりのためあごの辺まで水がきて」(教諭)
「女子水泳場の東北隅の表示竿より南西15m位のところに立ちどまると、深さはへその辺(95cm位)であったが、急に20cm位もあるうねりがきたかと思うと…その時水は脇位(1m16cm)になっていて、…うねりはわずかの間隔をおいて2回きたことはたしかである」(教諭)
「表示竿の線から2,3mでたところまでいくと、そこでもパンツの上のバンドがぬれないくらいの深さしかなかったが、…表示竿の南方15,6mのところで胸の深さになり、…急いでそこ(20m位先)へいくと自分のあご位の深さになり」(教諭)
「女子水泳場の北限の表示竿の方へいくと…そこの深さは水が鼻の辺まであったから1m50cm位であった」(教諭)
「南西から北東へよぎるように海に入っていくと、乳の辺までの深さが急に深くなって鼻の辺まできた」(救助に当たった男子水泳部員)
この他「その時の潮は漁師仲間で上り潮という癖のあるもので、…こういう潮の時は海面に段がついて押してくるので」(救助に当たった漁師)、「海岸の方に何かが押し迫ってくるような感じがした」(男子生徒)という証言がある。 このような「異常流」や「急激な水位上昇」についての証言は、いずれも幅50mの女子水泳場内外でのことで10m隔てた男子水泳場ではそれを意識しなかった男子生徒がかなり多数あった。

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  • 最終更新:2014-02-13 10:45:07

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